人間は中身だとほんとうに思っているのか? ●干場
写真は、先日、池尻大橋付近を歩いていて、目にとまった、とある居酒屋さんのメニュー表の上にかかれたコピー(?)。
ふーーむ。
思い出すのは、『幸福の方程式』で、冒頭、山田昌弘先生が書いていること。
「幸福はお金では得られない」と言い続けなければいけないのはなぜか?
(本当にみんながそう思っていたら、わざわざそうした言説が何度も強調されることはない。ということは、やはり、お金と幸福がつながっていると、みんな心の中では思っていると言うこと)という前提から、わたしたちが、
「物質的豊かさから幸福は得られないと頭では分かっていながら、それでもなお、わたしたちが(幸福のために)物質的豊かさを求めようとするのはなぜか?」を考えてみる(すみません、本が手元にないので、私の解釈の言葉になってしまっているかも)としているくだり。
おっしゃるとおりだ。
だとすると、「人間は中身だと思います」とわざわざ言わざるを得ないとしたら? このように書くのが、お店の集客に役立っているとしたら?
ふーーむ。やっぱり……なのです。
正直、中身じゃないとしたら、何なんでしょう?





こちらでは初めまして。面白い課題ですね。
その『幸福の方程式』という本を読んでいない、個人の視点で書いています。
>「幸福はお金では得られない」と言い続けなければいけないのはなぜか?
まず、この場合のお金というのは、汗水流して正直に働いて得るお金では無く、人を利用した結果得たお金、あるいはそこにふっと湧いて出たお金、という前提で考えますね。
その場合、お金で得られる幸福感は瞬時に手に入る喜びであるという傾向を考えると、人間の持つ性質はそこに飛びつきやすいと考えられますよね。人は楽な方へとなびきやすいですから、お金で買えないものから得られる幸福感を得る為の努力を避けてしまう事が往々にしてある、、、。
お金で買える瞬時の喜びというものは浅く短命だとすると、時間と努力を費やさなければ得られない深い幸福感というものの代わりにはならない訳ですよね。
とすると、『幸福はお金では買えない』という言葉は、人が物欲陶酔に走りやすい処に注目して目を醒させる意味で言い続けられるものだと考えられるかも知れません。
同様に、「人間は中身だと思います」というのも、人間が非常に左右されやすい部分、つまり、瞬時に目に入ってくる外観や耳に入ってくる音声などの質から相手を判断してしまうヒトの傾向を対象にした指摘ですよね。
それをわざわざ言わざるを得ないのは、ヒトは、そういう感覚だけに流されてしまったままになりやすい性質を持っているからこそ、そのままではとても貴重な何かを見落としてしまう事になるという忠告、あるいは覚書みたいなものなのかも知れません。
そういう設定で考えれば、そういう言葉に惹かれる心を持つ人というのは、外側のパッケージングの良さだけからでは得られない何か、あるいは外側のパッケージングが理想的では無くても人格で得られる何かの尊さを知っている人か、あるいは外側のパッケージングが良いとは言えなくても人格で勝負できるという希望を持っている人なのでは無いかなと、そんな風に感じました。
投稿: ゆうこ・マレー(emmaZero_Japan) | 2009年9月21日 (月) 14:42
お金に関していえば、(その社会の基準に比べて) お金がないことは確かに不幸だったりするし、その中で頑張ってお金を貯めて車を買ったり家を建てたりすることも幸福の一部でしょう。問題はある程度以上お金が入るようになった時に、その価値観が不要になったことに気付かないことだと思います。気付いていても次にお金が無くなったときが不安でしょうがない。
人間は中身だということに関していえば、これもちょっと複雑かな。持って生まれた容姿はあるけれど、服装などは自分で選んでいるところもあってそれは中身が外に出ているということでもあるでしょう。また、笑顔や自信に満ちた表情も中から出て来るものといえるでしょう。
投稿: うえだ | 2009年9月21日 (月) 16:00
幸福である、とは言い換えればそのひとにとっての「価値」であり、それは通貨そのものではないが、「換算可能」である。幸福を比べたり、多い、少ないで満足度を測るとするなら、それはお金のごとく「数値化」しているのとかわりがない。Happiness is economic system of human value.
今でも冗談のように使われることだが、「価値」の最良の物差しはお金である。人の幸せをお金の金額の多い、少ない、で語るのはもっとも説得力があり、他人に通じやすい。「幸せはお金ではない」と、人が言うとき、価値が計れないという意味ではなくて、むしろ価値を放棄しているように聞こえてしまう。(だからこそそのような物言いが批判的に聞こえる)
人間の価値が中身である、という言い方も、同様に聞こえる。中身とは何か、という意味を問う前に、この言葉は「外見が価値」という意見に反対を述べているのに過ぎない。むしろ、中身だとするなら、それをどのように判断するのか、というべきだが、この発言を好んで発する側があらかじめそのような説明を放棄してしまっている。おそらく人間は中身だと思います、という発言に感じ入る者は中身について真剣に考えたことのない人だけだろう。
投稿: nosebleederjp | 2009年9月25日 (金) 01:26
読者です。
人間は、「中身」というか、その人のもつ「哲学」次第だと思います。
投稿: gyato | 2009年9月26日 (土) 16:35